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こんばんは。「勝手に百番」の時間ですw
本日の曲は「五段砧」。
では、興味のある方はどうぞ。
本日の曲は「五段砧」。
では、興味のある方はどうぞ。
光崎検校作曲による、筝二重奏+尺八の曲です。
秋の夜更け、砧(きぬた)を打つ音が近く遠く聞こえる様子を表したものです。
古典曲なんですが、弾いてみると斬新な感じがしますねえ。
まず、この砧について。
絹といえば最高級の布地なんですが、繭から紡いだだけでは繊維が硬くてそのまま着るとちょっと痛いんですね。あえてそのまま使うこともあるんですが(紬やシャンタンはそれ)。
で、それを解消するために砧打ち、という作業が必要になってくるのです。
要するにバンバンぶっ叩いて繊維を柔らかくするわけです。
ただまあ、あんまり乱暴にすると繊維がダメになっちゃうので加減がいりますが。
で、何でか秋の季語なんです。多分李白の「子夜呉歌」あたりの影響なのかも。
秋の夜長にしんみりと砧打ちをするわけです。
砧ものはそんなこともあって、基本的にしんみり感のあるものが多いですね。
さて本題。
この光崎検校は前々からよく名前の出てきていた八重崎検校の弟子です。直接教わってます。
で、これまた何回か名前の出ている吉崎検校の一世代上の人です。
ちょうど幕末期で新撰組が京都市中をうろうろしてたり、長州藩が腹いせに京都の街に火をかけたりしていた頃ですね。
地唄は先達である菊岡・八重崎両検校によって完成されておりました。
唄と三弦、そして筝の合奏形態でやれる手は演奏家としても名高かった二人によって追求されつくされており、行き詰まり感があったのです。
そこでこの光崎検校は、今までは地唄については従の立場だった筝に注目し、「筝のための」曲を作ることにした訳です。
あえて唄や三弦は入れず、筝を高音と低音の2パートにして合奏の面白さを狙ってます。で、維新の後に尺八のパートが付け加えられた、と(尺八は光崎検校本人の作曲ではありません)。
この後から別に作曲された、というのは古典曲において結構多いんですね。
基本的に尺八の譜は、虚無僧の専売特許じゃなくなった明治に入ってから合奏のために作られたものだし。
「秋の曲」でも書いた通り、あまりに受けが悪いので手事を別の人がつけたということもあります。
古典の曲は普通、楽譜が存在しておりません。
作曲した検校さんがまず、楽譜を必要としなかったということ、そして習う側も楽譜が要らなかったんですね。
当時は点字なんてものなかったですし。
ところが筝や三味線を一般人も嗜むようになってくるとやっぱり楽譜が欲しいんです。
っていうかないと困ります><
光崎検校の生きていた時代は、まさにそんなニーズが高まっていました。
商売上手な方が持ちかけたということもあっただろうし、検校本人も乗り気だったのでしょう、本人直筆の五段砧の楽譜というものが確認されています。
写真も残ってます(残念ながら本物は空襲により焼失)。
時代のニーズって大事だと思うんだけど、この曲はもっと注目されてもいいんじゃないかと思う。
歌詞の意味が分かりにくい曲より、断然面白いと思うんだけどなあ。
秋の夜更け、砧(きぬた)を打つ音が近く遠く聞こえる様子を表したものです。
古典曲なんですが、弾いてみると斬新な感じがしますねえ。
まず、この砧について。
絹といえば最高級の布地なんですが、繭から紡いだだけでは繊維が硬くてそのまま着るとちょっと痛いんですね。あえてそのまま使うこともあるんですが(紬やシャンタンはそれ)。
で、それを解消するために砧打ち、という作業が必要になってくるのです。
要するにバンバンぶっ叩いて繊維を柔らかくするわけです。
ただまあ、あんまり乱暴にすると繊維がダメになっちゃうので加減がいりますが。
で、何でか秋の季語なんです。多分李白の「子夜呉歌」あたりの影響なのかも。
秋の夜長にしんみりと砧打ちをするわけです。
砧ものはそんなこともあって、基本的にしんみり感のあるものが多いですね。
さて本題。
この光崎検校は前々からよく名前の出てきていた八重崎検校の弟子です。直接教わってます。
で、これまた何回か名前の出ている吉崎検校の一世代上の人です。
ちょうど幕末期で新撰組が京都市中をうろうろしてたり、長州藩が腹いせに京都の街に火をかけたりしていた頃ですね。
地唄は先達である菊岡・八重崎両検校によって完成されておりました。
唄と三弦、そして筝の合奏形態でやれる手は演奏家としても名高かった二人によって追求されつくされており、行き詰まり感があったのです。
そこでこの光崎検校は、今までは地唄については従の立場だった筝に注目し、「筝のための」曲を作ることにした訳です。
あえて唄や三弦は入れず、筝を高音と低音の2パートにして合奏の面白さを狙ってます。で、維新の後に尺八のパートが付け加えられた、と(尺八は光崎検校本人の作曲ではありません)。
この後から別に作曲された、というのは古典曲において結構多いんですね。
基本的に尺八の譜は、虚無僧の専売特許じゃなくなった明治に入ってから合奏のために作られたものだし。
「秋の曲」でも書いた通り、あまりに受けが悪いので手事を別の人がつけたということもあります。
古典の曲は普通、楽譜が存在しておりません。
作曲した検校さんがまず、楽譜を必要としなかったということ、そして習う側も楽譜が要らなかったんですね。
当時は点字なんてものなかったですし。
ところが筝や三味線を一般人も嗜むようになってくるとやっぱり楽譜が欲しいんです。
っていうかないと困ります><
光崎検校の生きていた時代は、まさにそんなニーズが高まっていました。
商売上手な方が持ちかけたということもあっただろうし、検校本人も乗り気だったのでしょう、本人直筆の五段砧の楽譜というものが確認されています。
写真も残ってます(残念ながら本物は空襲により焼失)。
時代のニーズって大事だと思うんだけど、この曲はもっと注目されてもいいんじゃないかと思う。
歌詞の意味が分かりにくい曲より、断然面白いと思うんだけどなあ。
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